温故知新Unoblog

アクセスカウンタ

help リーダーに追加 RSS (江戸東京の歴史散歩) 浅草源空寺、地蔵菩薩立像の幡随院長兵衛の墓と伊能忠敬の墓

<<   作成日時 : 2009/01/14 11:38   >>

ブログ気持玉 0 / トラックバック 0 / コメント 0

浅草源空寺、地蔵菩薩立像の幡随院長兵衛の墓と伊能忠敬の墓
画像

伊能忠敬(ただたか)幡随院長兵衛の墓がある源空寺(高村光雲の生地でもあります)。伊能忠敬は江戸後期の測量学者。本名、神保三治郎。千葉県九十九里町に生まれ、18歳の時に酒造家伊能家の婿養子となる。彼が伊能家に来た時、家業は衰え危機的な状態だった。忠敬は倹約を徹底すると共に、本業以外にも、薪問屋を江戸に設けたり、米穀取り引きの仲買をして、約10年間で完全に経営を立て直した。1783年(38歳)の天明の大飢饉では、私財をなげうって地域の窮民を救済する。こうした功績が幕府の知る事となり、彼は苗字・帯刀を許された。やがて50歳を迎えた忠敬は、家業を全て長男に譲り、幼い頃から興味を持っていた天文学を本格的に勉強する為に江戸へ出る。浅草には星を観測して暦(こよみ)を作る天文方暦局があったからだ。

画像
舟型光背の地蔵菩薩立像の幡随院長兵衛墓(左)と妻きん墓(右)である。幡随院長兵衛は江戸初期の町奴。本名は塚本伊太郎。肥前唐津の士族で、幡随院の住職向導に私淑し、浅草花川戸に住み、奉公人を周旋する口入れ業に従事していたといわれる。当時、町奴と呼ばれる任侠の徒が横行し、また、大小神祇組という旗本奴も市街を乱していた。やがて、長兵衛は町奴の頭となり、旗本奴の頭領水野十郎左衛門(五千石)と張り合った。慶安三年(1650)四月、水野十郎左衛門のだまし討ちにあって没した。
画像

高橋至時墓と弟子の伊能忠敬と並んでいる
画像


画像







月別リンク

ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!
ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。
→ログインへ

トラックバック(0件)

タイトル (本文) ブログ名/日時

トラックバック用URL help


自分のブログにトラックバック記事作成(会員用) help

タイトル
本 文

コメント(0件)

内 容 ニックネーム/日時

コメントする help

ニックネーム
本 文