| タイトル |
日 時 |
山の辺の道
山の辺の道は北(天理)から南(桜井)に向って歩くと第12代景行天皇の陵を少し過ぎたところに山辺之道上陵があります。また、もう少し手前に第10代祟神天皇の陵があり、山辺道(の)勾(の)岡(の)上陵と古事記に書かれています。これらにしるされた山辺道は天理市石上神宮から桜井市金屋まで、ほぼ現存している日本最古の一本の道です。そして、山の辺の道に沿って大型古墳が残っており、道には最も古い神社、石上神宮はじめ大神神社(三輪明神)などがあります。
万葉歌碑の石碑があります。これは額田王の歌で うま酒 三...
...続きを見る
ブログ気持玉 /
トラックバック / コメント
|
2009/11/03 13:37 |
酒々井の双体道祖神
”道祖神”は、道の傍らに置かれた神様で、災いや疫病から人々を守ってくれるという民間信仰。”双体道祖神”は、男神・女神のカップル像。縁結びや子授けなどの信仰を含んでいるという。酒々井町には「本佐倉」、「尾上」、「上郷」など8組が祀られている。
...続きを見る
ブログ気持玉 /
トラックバック / コメント
|
2009/07/19 12:53 |
阿修羅の如く
七、八世紀にシルクロードを通って日本に渡ってきた文物思想が、仏像などとなって表現され、阿修羅像は日本での作とはいえ、その背景が中東ペルシャ神話からゾロアスター教に始まって、ヒンドゥ―教、仏教などに吸収されながら渡ってきたものであり、善悪の神に始まる思想そのものであります。善悪の対決と終末戦争、それに救世主の出現は、戦争においては勝てば官軍、負ければ悪軍となって歴史上に残り、本当の判断は後世に残ります。 阿修羅様は宗教神として、遠く紀元前のペルシャから、最高神、悪玉、善玉の役を務めながら、日本に到...
...続きを見る
ブログ気持玉 /
トラックバック / コメント
|
2009/06/21 17:35 |
四街道吉岡地区の城址と田中一村関係岡田家
福星寺城址
福星寺のある単郭方形の区画が城内である。郭内は長軸70mほどであり、わりと小さい。ところが、それに比してこの城の堀と土塁は意外なほど大規模である。堀は大きな所(西側)で深さ8m、幅20m近くもある。城全体は台地の先端部近くに位置してはいるが、台地先端ではなく、そのちょっと奥に入り込んだ部分を城域として、横堀を巡らせることによって周囲と区画している。上図は余湖くんHPより
...続きを見る
ブログ気持玉 /
トラックバック / コメント
|
2009/05/19 17:06 |
「御成街道」の金光院
御成街道沿い金親町の石井板金さん横の小道に「金光院」という小さな看板があり、気になっていましたが石井さんに尋ねました。寺にはある大名の籠が残っているとの答えでしたので訪ねてみました。古く傷んだものときれいな籠が2個保存してありました。
金光院は愛染山延命寺ともいい,真言宗豊山派のお寺で,弘法大師の作と伝えられる薬師如来を本尊としています。正応2年(1289)に金親村字中原に建てられましたが,その後火事で焼け,天文20年(1551)に千葉氏の家臣原式部大輔胤清(たねきよ)の土地の寄進により,現在...
...続きを見る
ブログ気持玉 /
トラックバック / コメント
|
2009/04/17 13:38 |
成田山新勝寺のぶらり散歩
成田山新勝寺は、京都府東山七条の智積院を総本山とする真言宗智山派に属しております。( 智積院については足利時代の中頃、興教大師ゆかりの根来山内の寺院の一つとして、長盛法印により創建された寺院です。そして、慶長6年(1601)、徳川家康により現在の京都東山に寺院を寄進され、この時智積院の能化であった玄宥僧正により再興されました。 総本山 智積院 大本山 成田山新勝寺、川崎大師平間寺、高尾山薬王院です)
新勝寺内光輪閣での坊入り精進料理がおいしい。特別に太い「ごぼう」の料理は他では食べられま...
...続きを見る
ブログ気持玉 /
トラックバック / コメント
|
2009/03/21 18:58 |
八千代市から佐倉に残る佐倉道、江戸中期から成田詣りで賑わい「なりたミち」と呼ばれた。遺跡
佐倉道は日光街道の千住宿から分れ八幡、船橋をとおり、八千代市大和田にいたり、佐倉から成田まで続く道でした。佐倉道沿いの大和田と萱田町に宿があり賑わった。佐倉道は、佐倉藩主を初め千葉県の大名達が参勤交代にあたって必ず利用しました。また大名ばかりではなく、江戸へ向う旅人、奉行人(千葉は男女奉行人の供給地)、更に海産物をはじめとする千葉各地の産物が、この道を通ったのです。1600年の後半になり社会も安定すると、庶民も自由に旅行ができるようになり、佐倉道を利用して成田詣が盛んに行われるようになります。初...
...続きを見る
ブログ気持玉 /
トラックバック / コメント
|
2009/02/22 12:51 |
四街道の道祖神をたどる
四街道から東金へ道祖神
四街道には中世の亥ヶ鼻城趾が在り、「城主は間宮新四郎と伝えられ大隆寺に墓がある」と地名大辞典に記述がある。「善光寺は後光山阿弥陀院善光寺といい、井野の千手院の末寺なり(印旛郡誌)」とあり、大辞典には「鎌倉期から存在し、嘉元4年と天明7年の板碑がある」。
天然痘はこの地方にも流行があり、このような塔を立てて拝むことがあったのであろう。
善光寺境内で20 基と多いのは秩父巡拝塔、門前には出羽三山塔もある。ここには 六観音がある。六観音には享保17年(1732年)市川市の...
...続きを見る
ブログ気持玉 /
トラックバック / コメント
|
2009/01/14 12:52 |
源氏物語千年紀 を訪ねる
源氏物語千年紀 京都 石山寺 宇治十帖を訪ねる
京都真言宗智山派総本山智積院 宿坊に泊る。わが国の最高の名作、国宝障壁画が納められています。桃山時代に長谷川等伯らによって描かれ、祥雲禅寺の客殿を飾っていた金碧障壁画が智積院には残されています。「楓図」「桜図」「松と葵の図」「松に秋草図」等は国宝に指定されています。
石山寺紫式部作「源氏物語」が誕生して今年でちょうど1000年。
石山寺は、紫式部が源氏物語の着想を得た地として有名な寺です。
宇治 宇治十帖早蕨の古跡
宇治上神社
...
...続きを見る
ブログ気持玉 /
トラックバック / コメント
|
2009/01/14 12:47 |
江戸城を歩く、篤姫と皇女和宮
江戸城を歩く、篤姫と皇女和宮
天守台から本丸御殿跡を望む。
表は、大広間と御舞台、松の廊下、白書院、竹の廊下、黒書院、溜の間、納戸、御用部屋。
中奥は、御座の間、(三家・溜の間詰大名・諸役人の将軍謁見など)御休息の間、(将軍寝所)将軍の娯楽・休養空間(双花亭・菊の御茶屋・八畳の間(鷹の間)
大奥は、御殿・長局・広敷の三区画からなる。
御殿ー御鈴廊下、御小座敷(将軍の居間兼寝所)、新御殿(御台所の生活空間)、仏間、下の御鈴廊下。
長局ー奥女中の居住空間。
広敷ー物品調達、事務...
...続きを見る
ブログ気持玉 /
トラックバック / コメント
|
2009/01/14 12:40 |
御成街道と御成御殿は?
「御成街道」がつくられた理由には諸説があります。1つは一般に言われています、家康の唯一の趣味が鷹狩で、その鷹狩に行くためのものとした。しかし、鷹狩のためにわざわざ道路をつくるでしょうか。2つめは産業用の道路です。九十九里方面からの産物を江戸へ運ぶためといわれていますが、この方面から江戸へ急いで運ばなければならないものはあまり見当たりません。3つめは軍事用の道路です。当時、館山に拠っていた里見義康を押さえるためといわれていますが、家康から見れば全くとるに足らない存在でした。東金御成街道 家康は慶長...
...続きを見る
ブログ気持玉 /
トラックバック / コメント
|
2009/01/14 12:00 |
白井権八と小紫の禿坂(かむろさか)の小紫禿の話
目黒不動前の禿坂に残る、白井権八と小紫とその禿の話
目黒駅から東急目黒線で次の駅、不動前駅で下車して右に進むと、山手通りから分かれて、南方の小山台方面に通じている道路にぶつかる。この道路は南へ向かってゆるやかな上り坂になっている。最近は桜の名所にもなっているようである。この坂が「かむろ坂」である。「かむろさか」は漢字で書けば「禿坂」である。左に曲がって坂を上って最初の交差点を右に向かって突き当たりが目黒不動尊である。その交差点手前左に、以前小生の勤務先であった会社のビルがある。この一角が禿(...
...続きを見る
ブログ気持玉 /
トラックバック / コメント
|
2009/01/14 11:56 |
江戸時代の有馬猫騒動 三田に猫の墓が今もある
江戸時代鍋島有馬猫騒動
鍋島猫騒動は江戸時代の佐賀藩鍋島家に起こったとされる御家騒動として、また猫が人間に変化する猫化物として、有馬家久留米藩を題材とした有馬猫化け騒動などとともに著名なものである。小生の通った港区三田高校横の赤羽小学校前に有馬屋敷跡の猫様の塚がある。
有馬猫化け騒動について、久留米藩21万石の8代藩主、有馬中務太夫頼貴夫人は、雲洲松江18万石松平出羽守の息女千代姫であった。輿入れと共に付け人として従ってきた高尾重左衛門の姪のたきは、関屋といって奥方付きの女中となった。 あ...
...続きを見る
ブログ気持玉 /
トラックバック / コメント
|
2009/01/14 11:49 |
上野同潤会アパートと翁家さん馬邸
今に残る上野 同潤会アパートと翁家さん馬邸 同潤会アパート(どうじゅんかい-)は、関東大震災後に発足した財団法人同潤会が東京・横浜に建設した鉄筋コンクリート造の集合住宅のことである。
関東大震災では木造で密集した市街地が大きな被害を受けたため、不燃の鉄筋コンクリート造で住宅供給を行うことが目的であった。主に都市の中間層(サラリーマンなど)を対象としたが、職業女性向けのアパートや、スラム地区対策として建設されたアパートもあったそうである。
その前に落語家が住んでいた家があった。翁家 さん馬(お...
...続きを見る
ブログ気持玉 /
トラックバック / コメント
|
2009/01/14 11:43 |
(江戸東京の歴史散歩) 浅草源空寺、地蔵菩薩立像の幡随院長兵衛の墓と伊能忠敬の墓
浅草源空寺、地蔵菩薩立像の幡随院長兵衛の墓と伊能忠敬の墓
...続きを見る
ブログ気持玉 /
トラックバック / コメント
|
2009/01/14 11:38 |
江戸東京歴史散歩(江戸末期西郷隆盛銅像と彰義隊の墓
上野西郷隆盛銅像。隆盛像は高村光雲(こううん)(1852〜1934)、愛犬ツンは後藤貞行の作である。現在この場所で幕末の悲惨な状況を想像することはできない。
幕末に徳川家の処分が官軍の間で議論される中で、和平に不満をもつ旧幕臣は渋沢成一郎(渋沢栄一の従兄弟)や天野八郎らが同盟を結成、後に彰義隊と称し、慶喜の水戸引退後も徳川家霊廟守護を目的として、寛永寺覚王院義観の支援を受け寛永寺に立てこもった。大村益二郎指揮の東征軍は、薩摩軍が広小路口から、長州軍が谷中.本郷台方面から上野を総攻撃した。新政府...
...続きを見る
ブログ気持玉 /
トラックバック / コメント
|
2009/01/14 11:32 |
明日香路の飛鳥寺飛鳥大仏
「飛鳥大仏」の名で親しまれている釈迦如来坐像。全長2メートル70センチ。大仏といっても奈良大仏や鎌倉大仏のような巨大仏ではない。
法隆寺の釈迦三尊像と同じ鞍作止利(くらづくりのとり)の作ということで、顔を含め全体の造りに共通する部分が多い。ただ、鎌倉時代に落雷で半壊するなど、後世の補修による部分が多く、当初から残るのは顔の一部分と、右手指3本のみである。
...続きを見る
ブログ気持玉 /
トラックバック / コメント
|
2009/01/14 11:25 |
奈良散歩 頭塔
奈良市高畑町に所在する頭塔(ずとう)は、奈良時代の高僧、玄肪の首を葬った塚であるという古くから流布した伝説がある。
伝説によると天平18年6月18日、僧玄ムが大宰府観音寺供養に導師として臨んだ際に、藤原広嗣の霊のために頭を捕えられ、翌年にその髑髏が興福寺内に落下した。それを徒弟が納めて墓を築いたという。これが「頭塔」の名の由来と伝えられているようです。
近年、発掘調査と地形測量の結果、頭塔の規模は一辺32メートル、高さ1,2メートルの基壇を築き、その上に三段の土壇を積む総高役10メートルの...
...続きを見る
ブログ気持玉 /
トラックバック / コメント
|
2009/01/14 06:39 |
奈良 猿沢の池から興福寺を望む
奈良興福寺猿沢の池 『昔平城の帝に仕う奉る采女あり、顔かたちいみじう清らにて人々よばひ、殿上人などもよばひけどあはざりけり。そのあはぬ心は帝を限りなくめでたきものになん思ひ奉りける・・・云々』(大和物語より)
常なきものは男女の仲、やがて帝の寵愛の衰えたことを嘆いて采女は身を投げた。そのとき衣を掛けたのが衣掛柳といわれる。その霊をなぐさめられたのが采女神社
...続きを見る
ブログ気持玉 /
トラックバック / コメント
|
2009/01/13 21:32 |
元興寺の万葉碑
元興寺の万葉碑 白珠のひとにしらえず…。
十年戊寅(つちのえとら)に、元興寺(ぐわんごうじ)の僧が自ら嘆く歌一首
「白珠は 人に知らえず 知らずともよし 知らずとも 我れし知れらば 知らずともよし」巻6−1018「白珠者 人尓不所知 不知友縦 雖不知 吾之知有者 不知友任意」
この一首は、「元興寺の僧、独覚にして多智なり。いまだ顕聞あらねば、衆諸狎侮る。これによりて、僧この歌を作り、自ら身の才を嘆く」といふものらしい。
...続きを見る
ブログ気持玉 /
トラックバック / コメント
|
2009/01/13 21:26 |